鎌倉の歴史上の主な人物

   正宗(まさむね)  
正宗(生没年不詳)は、鎌倉時代末期の刀工として名高い。諸国を回って修行した後、師・国光から伝わる相州伝を完成させた。名刀・観世正宗の太刀、包丁正宗の短刀などは国宝になっている。正宗の刀は伸びやかな曲線と精錬さの中に秘められた躍動感が特徴。正宗の子孫が鎌倉に在住し、今も正宗の伝統を受け継いでいる。小町の本覚寺に墓がある。









  三浦泰村(みうらやすむら)
三浦泰村(?~1247)は、鎌倉幕府創立時の功労者・義村の次男。泰村自身、承久の変で功を立て、評定衆として活躍。三代執権・北条泰時の娘を妻にする等、幕府政治の中枢を担った。それだけに北条氏による三浦氏への警戒も強くなった。宝治元年(1247)、五代執権・北条時頼の外祖父である安達景に謀られ、三浦と安達氏の合戦が起こった(宝治の乱)。時頼も出兵した為、法華堂(現在は白幡神社)に立て篭もり、泰村以下一族とこれに加担した毛利、島津合わせて500人が自害し、三浦氏は滅亡した。裏山に三浦一族毛利、島津の墓がある。









  源実朝(みなもとのさねとも)     源氏系図
源実朝(1192~1219)は、三代鎌倉幕府将軍。源頼朝政子の次男。追放された兄・源頼家の後を継ぎ、11歳の若さで鎌倉幕府の三代将軍になった。しかし実朝が政治にかかわる余地は、まったく残っていなかった。畠山一族は滅び、北条時政は追放され、和田一族も滅びました。実朝は歌に打ち込んだ。今に残る「金塊和歌集」は、藤原定家に学んだこともあって将軍の余技を超え、独自の歌風を確立していた。朝廷から独立をはかる幕府にとって、京へ憧れを持つ実朝は見過ごし出来ないものであった。健保7年(1219)正月27日、実朝は右大臣拝賀の席上で、頼家の子公暁に暗殺された。寿福寺に母・政子の隣で眠っている。
     源実朝