文永の役(1274) |
文永5年(1268)1月蒙古の使者が,皇帝「フビライハーン」から元の国書を携えて大宰府に到着した。通商を求める蒙古の国書は、鎌倉幕府の執権18才の北条時宗を通して京の朝廷の後嵯峨天皇に届けられた。朝廷では連日会議を重ねたが結局この国書を無視することに決めた。その後、蒙古は4回に渡って使者を派遣してきた。(蒙古は1271年に元に国名を変更した)。文永10年(1273)1月、元の使者・趙良粥(チョウリョウヒツ)が朝廷並びに将軍に謁見を要求し、要求をかなえられないなら自分の首を切れと強硬であったが、一ヵ年の滞在の後、得ることなく帰国した。 文永11年(1274)10月19日博多湾の沖に、対馬、壱岐を襲った後、元・高麗連合軍2万5000の兵を乗せた900隻の軍船の大軍が押し寄せてきた。翌20日早朝一斉に上陸を開始した。主力元軍2万は筥崎・博多方面に、また残り高麗軍は西方の佐原に上陸した。これに対して迎え撃つ日本軍は,筑前守護で大将・少弐景資が本拠を筥崎に置いた。両軍が激突したのは午前10時ごろであった。しかし,元軍は戦いに慣れていたのと戦法や武器の違い(火薬を使った武器や短い弓等)で、日本軍は大混乱となり、元軍の一方的な勝利になった。しかし元軍は陸に上がらず、海上で明日の攻撃に備えて待機した。 その夜、博多湾を吹き荒れた台風により、海上の元軍は壊滅的な打撃を蒙った。元軍の死者は総数13500余人の多数に上った。台風と言う神風による勝利と言うより、急ごしらえの元軍の船がお粗末であったと言われてもいる。 蒙古の国書(東大寺尊勝院蔵本) 上天眷命,大蒙古国皇帝,書を日本国王に奉る。朕おもふに,古より小国の君,境土相接すれば尚講信修睦に務む。・・・・高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し,開国以来亦時に中国に通ず。朕の躬に至って一乗の使も以て和好を通ずること無し。尚ほ王の国これを知ること未だ審ならざるを恐る。故に特に使を遣はし,書を持して朕の志を布告せしむ。冀くは今より以往,通問結好し,以て相親睦せん。且つ聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは豈に一家の理ならんや。兵を用ふるに至るは夫れいずれか好む所ならん。王其れ之を図れ。・・・・・不宣。 至元三年(1266)八月要約 「蒙古は天下をおさめて、国の勢いはますますあがり、高麗もすでに臣下になっている。仲良くしたい。日本がわたしの国にみつぎ物を持ってこないのは,きっと,我々の勢いを知らないからであろう。早くまじわりを結ばないと武力を用いることになる。どちらが良いか考えて見よ。」 大蒙古国皇帝書を日本国王に奉ず 蒙古襲来絵詞(宮内庁所蔵) |
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