弘安の役(1281) |
文永11年(1274)の思わぬ敗北以来、元のフビライ・ハンは日本への再征を準備していた。フビライ・ハンの狙いは完全な日本の征服と属国化であった。元の日本遠征軍は、前回の遠征軍の5倍に近い、兵14万,軍船4400隻の大軍であった(東路軍兵4万,軍船900隻。江南軍兵10万,軍船3500隻)。弘安4年(1281)5月3日,朝鮮の合浦を出航した東路軍は,文永の役と同様,対馬・隠岐をおかし,以前よりもっと残虐に攻撃した。そして博多湾に攻め込んで,志賀島を占領した後,主力の江南軍の到着を待つために,伊万里湾の鷹島に向かった。やがて遅れてきた江南軍が到着し元の大軍が鷹島に集結した。 弘安4年(1281)7月1日の夜、前回の文永の役と同様、またも台風が吹き荒れ、元の軍船は戦う前に壊滅的な打撃を蒙り、先を争って逃げ帰って行った。元軍は全軍の7〜80%を失ったと言われる。その後、元は三度目の日本への侵略を準備をしたが、国内の事情で、それどころではなくなり実行をすることは無かった。 歴史が始まって以来の国難に勝利出来た要因は@文永の役も弘安の役も突然起こった台風によって危ないところを助けられたこと。A朝廷も鎌倉幕府も元の来襲について一体となって国難に立ち向かったこと。B北条時宗の知恵と勇気があったこと。C元軍に海戦の経験がなく、しかも元軍の船が急ごしらえでお粗末であったこと。このような要因が、からみあって日本は、2度の国難を退けることが出来た。 元寇はその後の日本に様々な影響を与えた@鎌倉幕府の支配権が大幅に拡大浸透した。幕府は戦争指揮の名のもとに荘園、寺社などに強権を発してきたが、戦後もその既得権を維持した。西国の外様の守護を北条一門に交代させ、北条氏の権力基盤を強化していったA台風=神風と言う神国意識がたかまっていった。B財政的に幕府や御家人達が逼迫し幕府衰退の要因になった。 |
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