悲劇の舞台、比企谷の妙本寺を訪ねて
散策ポイント
悲しい歴史を秘めた比企一族と鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の家族を妙本寺にしのぶ
源頼家と比企能員
正治元年(1199)正月、源頼朝が急死し、嫡男の源頼家が鎌倉幕府第二代将軍となった。頼家、18才の時であった。しかし幕政は北条時政政子親子が掌握しており、将軍は幕府の象徴にすぎなかった。源頼家の妻は比企能員の娘の若狭局であり、比企能員の伯母・比企局は源頼朝の乳母であった。そのため頼家は何かと比企能員を頼りにしていた。

頼家の妻となった若狭局は嫡男。一幡を生んだ。この様な関係は北条と比企との対立に発展していった。北条時政は政子と謀り、頼家を廃して、政子のもとで養育していた千幡(源実朝)を次期将軍に立てようと、頼家が発病し、重体に陥った時、北条時政と政子は千幡に関西38カ国の地頭職を、全国の守護職と28カ国の地頭職を頼家に支配させるよう画策した。
頼家が家督を譲るとすれば、当然嫡男の・一幡に譲るべきものであり、比企能員と頼家は怒り共謀し北条氏打倒を図った。しかし北条時政は比企能員を巧みに自邸に招きいれ、殺害するとともに、時を移さず北条一族と畠山、三浦、和田等の御家人を動員して比企一族が一幡を擁して立て篭もる比企谷の比企邸を攻撃。比企一族は防戦したがついに館に火を放って全滅した。わずか6才の一幡と母・若狭局とともに炎の中に消えていった。

妙本寺
には比企一族と一幡の墓、若狭局を祀る蛇苦止堂がある。 妙本寺は比企の館跡である。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され元久元年(1204)7月17日に北条氏の刺客によって殺害された。頼家23才であった。頼家の弟・千幡(実朝)が三代将軍・実朝になったのは建仁三年(1203)9月9日で11才であった。しかし幕政の実権は執権の北条時政が掌握していた。承久元年(1219)正月27日に実朝は右大臣就任の拝賀の式典を鶴岡八幡宮で行った帰り、社殿の石段の下の大銀杏の陰に隠れていた頼家の子・公暁に「父の仇討ち」として太刀で殺害された。実朝の墓は寿福寺にある。

後に公暁は北条の追手のものに殺害された。鎌倉幕府二代将軍・源頼家には5人の子があったが長男・一幡は比企一族と母・若狭局とともに討死。次男・公暁は実朝を殺害後、北条氏により殺害。三男・実学は和田合戦の時、討死。女子の竹御所は後に九条家出身の鎌倉幕府第四代将軍・藤原頼経と結婚したが難産の為、32才で死去。墓は妙本寺にある。

        源頼家を中心とした 人物関連図

            

       妙本寺境内散策MAP

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