元弘の変(1331)
嘉暦元年(1326)、北条高時が執権を金沢貞顕に譲った。しかし、金沢貞顕は一ヶ月で執権を赤橋守時に譲る。その翌年3月に皇太子・邦良親王が死去したので、後醍醐天皇は自分の皇子の尊良親王を皇太子につけるよう幕府に働きかけたが、幕府の意向で持明院党の量仁親王が皇太子に決まってしまった。しかも幕府は後醍醐天皇の譲位を求めてきた。

後醍醐天皇はこれらの幕府の処置と、幕府内の内紛状況に幕府の末期状態を感じ、ついに再度の倒幕計画へと突き進んだ。今度も謀議の首謀者は日野俊基であった。ところが元弘元年(1331)4月、天皇側近の前大納言・吉田定房がこれを六波羅探題に密告した。理由は急進的な倒幕計画に反対であったと言う。六波羅探題の軍勢によって一味は捕らえられ、日野俊基は首謀者として鎌倉に護送され、翌年6月2日に葛原岡で処刑された。

幕府の目が内紛処理に追われている間に、元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は京を脱出し、比叡山に行き、元弘元年(1331)8月、比叡山の僧兵や近国の武士達に六波羅探題を攻撃する計画を立てた。しかし、この計画が六波羅探題に漏れ、六波羅探題は天皇の逮捕に動いたが天皇はその動きを察知し、京を脱し、笠置山(京都市相楽)にこもった。

六波羅探題は、天皇が笠置山にこもった事を知ると7万5千の大軍を差し向け9月3日攻撃した。天皇方の足助重範らが必死に防戦し激戦となり、大軍の六波羅勢も攻めあぐねていたが、後醍醐天皇挙兵の報で、幕府は20万の大軍を応援に差し向けてきた。これだけの大軍にあっては砦のような笠置山も陥落した。後醍醐天皇はお供を連れて脱出し、山城国(京都府)多賀村の有王山で幕府方に捕らえられ、翌年三月に隠岐へ配流となった。
      
 

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