鎌倉の歴史上の主な人物 |
平頼綱(たいらのよりつな) |
平頼綱(?~1293)は、九代執権・北条貞時の時代、御内人(北条得宗家の直属家臣)として専制的な政治を行った人物。頼綱は、八代執権北条時宗に用いられて、その秘密政治に参加。時宗の死後、弘安八年(1285)、御家人の筆頭の政敵・安達泰盛を滅ぼして(霜月騒動)、未だ若い北条貞時の蔭で政治を操った。しかし正応六年(1293)、貞時に屋敷を急襲され、討ち死にした。(平禅門の乱) |
畠山重忠(はたけやましげただ) |
畠山重忠(1164~1205)は、鎌倉幕府初期の御家人。始めは平家方であったが、源頼朝の鎌倉入り以降は、源氏に従う。木曾義仲追討や平家追討の戦いに参加。奥州の藤原攻めにも功が有る等、頼朝の信頼が厚かった。しかし、子の重保が北条時政の後妻・牧の方に謀反の疑いを掛けられ殺害され、重忠も幕府の討手を相手に奮戦したが、討ち死にしてしまった。若宮大路の一の鳥居の傍らに畠山重忠の長子の重保の墓がある |
畠山重忠像 |
比企能員(ひきよしかず) | 人物関連図 |
比企能員(?~1203)は、鎌倉幕府初期の御家人。養母は源頼朝の乳母・比企尼。頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍、数度の合戦で功を立てた。妻は二代将軍・頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻になって、子の一幡を生んだ。将軍の外戚となった能員は北条時政と並ぶ権力者だったが、将軍後継ぎ問題に端を発して、時政との不和が表面化。時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招いて謀殺。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺しにした。 |
比企能員像 |
日野俊基(ひのとしとも) |
日野俊基(?〜1332)は、後醍醐天皇の側近で、参議・蔵人頭。正中元年(1324)に討幕の謀議に加わるが、捕らえられて鎌倉に護送された(正中の変)。元弘元年(1331)、再度謀議が幕府に漏れ、俊基は鎌倉の葛原岡で翌年、処刑された。俊基を祭った葛原岡神社や、俊基の墓がある。辞世の句「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」を残している。 |
藤原秀衡(ふじわらのひでひら) |
藤原秀衡(1122~1187)は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になってからも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とする様、遺言を残して没したが、泰衡は義経を殺害した。頼朝は、文治五年(1189)、奥州攻めの軍を起こし、平泉に攻め入って藤原氏を滅ぼした。 |
藤原秀衡像 |
藤原頼経(ふじわらのよりつね) |
藤原頼経(1218~1256)は、四代鎌倉幕府将軍。幼名は三寅。父は左大臣・藤原(九条)道家。母は権大納言・西園寺公経の娘で、源頼朝の姪。三代将軍・実朝の暗殺後、鎌倉幕府の北条政子・北条義時姉弟と首脳の画策で、二歳で鎌倉に下る。三代執権・北条泰時の就任と同時期に元服して頼経となり、八歳で将軍となる。当然幕府の実権は北条の手中にあった。寛喜元年(1230)に二代将軍・源頼家の遺娘の竹御所と結婚。頼径13才、竹御所28才であった。27才の時、6才の嫡男・頼嗣に将軍職を譲り、出家して「大殿」と呼ばれた。寛元四年(1246)、側近の名越光時が頼経を担いで自ら執権になろうと企てたところ、事前に発覚し光時は失脚。頼経は京へ送還された。 |
藤原頼経像 |
北条高時(ほうじょうたかとき) | 北条氏系図 |
北条高時(1303~1333)は、十四代鎌倉幕府執権。九代執権・北条貞時の子で、13歳で位を継ぐ。高時は田楽や闘犬にふける。嘉暦元年(1326)に出家して、金沢貞顕に執権職を譲った。後醍醐天皇による討幕運動に抵抗出来ず、元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに逢い、東勝寺に入って一族800余人が自決し、150年に渡る鎌倉幕府は滅亡した。 |
北条高時像
北条時政(ほうじょうときまさ) | 北条氏系図 |
北条時政(1138~1215)は、初代鎌倉幕府執権。伊豆・北条(静岡県韮崎)に勢力を持った豪族。長女の政子が、当時流人であった源頼朝と結婚。その後は挙兵から鎌倉幕府創設まで、頼朝の後ろ盾になる。頼朝没後、二代将軍・頼家の背後で勢力を伸ばした比企一族と対立。建仁三年(1203)、比企能員を謀殺したばかりか、一族を攻め滅ぼし、頼家を引退に追い込み、伊豆・修善寺で殺害した。実朝を三代将軍にして、自らは執権と称し、幕府内部で権力を振るう。時政の横暴さがエスカレートし、終に、娘の政子、息子の北条義時によって引退に追い込まれた。伊豆の願成就院に墓がある。 |
北条時政像 |
北条長時(ほうじょうながとき) | 北条氏系図 |
北条長時(1229〜1264)は鎌倉中期の第六代鎌倉幕府執権。北条重時の次男。父・重時が鶴岡八幡宮の前の若宮大路の東隅の屋敷に住んでいたので八幡宮の池にかけられた赤橋にちなみ赤橋氏と称した。北条氏の嫡流である北条時宗が成長するまでの間、執権職を預けられたが幕府政治の実権は北条時頼が握り院政をひいていた。文永元年(1264)7月3日に出家し執権職を北条政村に譲った。文永二年(1266)8月鎌倉の淨光明寺で死去(35才) |
北条長時像 |
北条政村(ほうじょうまさむら) | 北条氏系図 |
北条政村(1205〜1273)は鎌倉中期の連署、第七代鎌倉幕府執権。第二代鎌倉幕府執権・北条義時の三男。延応元年(1239)10月、評定衆に就任して初めて幕政の中枢に参画し、翌仁冶元年(1240)から評定衆の筆頭を占め幕政の最有力メンバーの一人となった。文永元年(1264)八月に北条長時が病没すると得宗の北条時宗が幼少で有った為、政村が執権となった。北条一門の中で最も長期にわたり幕政に関与したのが政村であった。政村の屋敷跡は現在史跡・北条常盤邸跡になっている。 |
北条重時(ほうじょうしげとき) | 北条氏系図 |
北条重時(1198〜1261)は鎌倉中期の武将。極楽寺殿と称す。北条泰時の3男。宝治合戦(1247)の後、執権・北条時頼に招かれ連署に執任。康元元年(1259)三月、出家。正元元年(1259)もと藤沢にあった極楽寺を鎌倉に移し、同寺に住し、弘長元年(1261)11月3日に同寺64才で没す。和歌に優れ、藤原定家とも親交があった。また武家家訓と言われる「北条重時家訓」を残している。極楽寺に墓がある。 |
北条経時(ほうじょうつねとき) | 北条氏系図 |
北条経時(1224〜12461)は第四代鎌倉幕府将軍藤原頼経・頼嗣時代の第四代鎌倉幕府執権。父は北条時氏。嘉禎三年6月、祖父・北条泰時の死去により執権となる。寛元四年、経時の病が重くなり、執権職を弟・北条時頼に譲って、出家し22才の短い生涯を閉じた。経時開基の光明寺に墓がある。 |