奥州・藤原氏滅亡、頼朝全国支配へ |
文治元年(1185)源頼朝は、義経追討の院宣を後白河法皇から発しさせた、このため義経は西国の寺社をてんてんとしていたが、文治3年(1187)2月義経は比叡山延暦寺から奥州・藤原秀衡を頼って平泉に入った。平泉は藤原清衡、基衡、秀衡の藤原3代が中尊寺に象徴される絢爛たる文化都市であった。また、この時期、日本には鎌倉幕府、京の朝廷、それに藤原氏の3政権があった。 義経は、秀衡から歓待されたが、秀衡は10月に亡くなってしまった。頼みの秀衡が亡くなると、頼朝は、義経追討の院宣を後白河法皇から数回にわたって泰衡に送らせた。頼朝からの圧力が強まり、藤原氏4代目の泰衡は何時までも義経をかくまうと朝廷の敵になりかねないと、文治5年(1189)閏4月30日、数百騎の軍勢で、衣川の義経の館を襲った。義経は、良く戦ったが兵力の違いが有り、義経は、館に火をつけ妻と娘(4才)と共に自害した。 こうして義経は31才の波乱の人生の幕を閉じた(この時、弁慶の壮烈な討ち死に伝説が残っている)。文治5年(1189)8月22日、頼朝は義経をかくまったことを理由に、28万の大軍を藤原氏討伐のために平泉へ進攻させた。泰衡は、平泉に火を放って北へ逃走した。しかし泰衡は、家臣の裏切りにより9月3日に殺害され、ここに3代の栄華を誇った藤原氏は滅亡した。頼朝は、奥州を平定して全国統一がほぼ完成した。 源氏系図 |
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