頼家、修善寺で暗殺
正治元年(1199)正月、源頼朝が急死すると、嫡男・頼家が2代将軍になった。頼家わずか18才であった。しかし甘く育てられた頼家には有力な御家人を統率出来る力量がなく、権力を振りかざしての行動が目立ち、幕府組織の運営は成り立たないと見て、北条時政政子が画策して、正治元年(1199)4月12日、有力御家人13人による会議がもたれた。そして幕政はこの13人の合議制で運営していくことに決定された。名目上は若い頼家を補佐するためであったが、実際は頼家から独裁権を取り上げるためであった。頼家が将軍になって僅か3ヶ月後の事であった。

将軍は幕府の最高権力者ではなく、たんなる幕府のシンボルに過ぎなくなっていた。北条時政政子は 頼家を廃して政子のもとで養育されていた頼家の弟・千幡(後の実朝)を時期将軍にしようと画策した。建仁3年(1203)7月、頼家がにわかに病におちいった。北条時政政子は絶好の機会として、関西38カ国の地頭職を頼家の弟・千幡(実朝)に支配させ、全国の守護職と関東28箇所の地頭職の支配は頼家の息子・一幡に譲る様画策した。また頼家が存命にもかかわらず、千幡(実朝)の将軍にする様、朝廷へ働きかけた。

頼家と義父・比企能員は北条氏の打倒を謀った。これを知った北条時政・政子は、比企能員を自邸におびき寄せ殺害するとともに、北条一族はじめ、畠山重忠、小山朝政、三浦義村和田義盛らの御家人を動員し、比企一族が、一幡を擁して立てこもる館(現在の妙本寺)を急襲した。比企一族は必死に防戦したが、ついに館に火を放って全滅した。建仁3年(1203)9月29日頼家は伊豆の修善寺に幽閉された。翌元久元年(1204)7月17日、頼家は北条氏の放った刺客によって暗殺された。頼家、23才の時であった。
   源氏系図        人物関連図        悲劇の比企一族
 
修善寺にある源頼家の墓
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