義経、腰越状を送る(1185) |
元暦元年(1184)源義経は後白河法皇から平氏追討の功績から左衛門少尉に任じられ検非違使となった。この任命は源頼朝の許可がなく行われた。一の谷、屋島、壇ノ浦と次々と平氏を打ち破ってきた名将義経に対して、「武士による政権」を作りたい頼朝は義経の無頓着な行動や政治方針等の違いで、頼朝は義経へ不満持っていた。 頼朝は、この任命にたいして強く不満を持ち、以来頼朝と義経の仲は悪化していった。元暦2年(1185)5月7日義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいましたが鎌倉に入ることが許されず、義経は、腰越の満幅寺(腰越)に逗留し、5月27日一通の嘆願状を書いて、頼朝の信望が厚かった公文書別当大江広元に差し出した。これが腰越状です。 この書状には読む人の心に切々と響いてきます。兄の心はどう変わろうとも、兄への服従する気持ちは絶対に変わらないことを述べています。しかし頼朝の怒りを解くことが出来ず、重い足取りで京へ戻っていった。 |
意訳 腰越状 源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔ににお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう。 亡くなった父の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、父はなくなり、母に抱かれて、大和国の宇多郡、龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。その当時、京都も動乱が続き、身の危険もあったので、色々なところへ隠れたり、遠い国へ行ったり、そして土地の民や百姓に世話になり、何とかこれまで生き延びてきました。 たちまち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、飛び立つ思いで急いで駆けつけましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに義仲を倒し、次ぎに平家を攻めました。ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊をお休めする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。 その上、さむらいとして最上の官位である五位の尉に任命されましたのは、自分だけではなく、源家の名誉でもありましょう。義経は野心など少しもございません。それにもかかわらず、このようにきついお怒りをうけては、この義経の気持ちをどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。神仏の加護におすがりするほかはないように思えましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書を差し上げましたが、お許しがありません。 わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、あなたの慈悲に頼る以外は無くなってしまいました。情けをもって義経の心のうちを、頼朝殿にお知らせいただきたいと思います。もしも疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。 ただただ長い不安が取り除かれて、静かな気持ちを得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断を。 義経 元歴二年五月 日 源義経
進上因幡前司殿(大江広元)
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