霜月騒動(1285)
霜月騒動は、5代執権・北条時頼が得宗(北条氏の本家)の独裁政治を始めた時から、得宗の直属家臣(御内人)・平頼綱と御家人の筆頭・安達秦盛との間で起こった騒乱である。

得宗の権力が大きくなるにつれ、御内人の権勢も強くなっていった。北条時宗が亡くなり、嫡男・貞時(14才)が9代執権となった時、貞時の乳母の夫である平頼綱が内官僚(得宗の家宰)として御内人の筆頭になった。北条氏家臣団の筆頭である平頼綱と幕府創立期時代からの有力御家人で御家人の筆頭である安達泰盛の間には対立関係があった。時宗の死後、その対立がより強まっていった。

平頼綱にとって、北条の縁戚(泰盛の娘は時宗の妻)として,権威を保っている安達泰盛は,北条氏の独裁政治を行っていくのに目障りであった。平頼綱は、幼い貞時を擁して御内人が幕政の実権を握ろうとした。平頼綱は、貞時に「安達秦盛の嫡男・宗景が源氏姓を名のり、将軍になろうと陰謀を企てている」と吹き込んだ、そしてまだ分別もつかない当時15才の貞時の承諾をとりつけ、弘安8年(1285)11月17日平頼綱は軍を安達一族に向けた。

安達一族は頼綱軍を迎え撃ち、乱戦となったが、結局安達一族は敗退し、安達秦盛、宗景は殺され、幕府創立期時代からの有力御家人の安達一族は滅亡した。そして平頼綱は安達氏と関係のある御家人を徹底的に粛清した。その数500名と言われている。その影響は地方にも及んだ。この騒動は霜月(11月)に起こったので霜月騒動と言われる。

その後、御家人の政治勢力は完全に押さえられ、権力を握った
平頼綱は一族や与党を重用して専制政治を行った。しかし成長した貞時により正応6年(1293)4月22日、平頼綱、次男・資宗を滅ぼされ、長男・宗綱を佐渡に配流された。(平禅門の乱)


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