鎌倉の歴史上の主な人物 |
足利貞氏(あしかがさだうじ) |
足利貞氏(1273~1331)は、足利尊氏の父で、鎌倉幕府末期の御家人。妻は、後に関東管領を世襲する事になる上杉家の清子。後醍醐天皇の討幕計画にも関与した。浄妙寺を中興した事で知られ、同寺に貞氏の墓がある。 |
足利貞氏像 | |
足利尊氏(あしかがたかうじ) |
足利尊氏(1305~1358)は、初代足利幕府将軍。足利貞氏の嫡男。尊氏は、始めは高氏を名乗ったが、建武の新政に功があったとして、後醍醐天皇の名「尊冶」から一字を賜わっている。尊氏は六波羅探題北方・北条久時の娘(登子)と結婚して、北条家と強く結びついた。その為、後醍醐天皇の討幕運動にも幕府方の大将として出陣し、天皇が籠もる笠地城を陥落させた。更に配流先の隠岐から戻って来た天皇を討伐する軍に加わった。しかし途中から幕府の戦列を離れ、幕府の六波羅探題を攻略した。幕府を、直接攻撃した新田義貞に比べ、尊氏の働きは劣るが戦後の評価は尊氏の方が高かった。尊氏は、武力より政治力に長けていたと言われている。鎌倉には尊氏の足跡が至る所に見られる。(覚園寺、長寿寺、宝戒寺等)。1358年4月54歳で亡くなる。京都の等待院の墓所。 |
足利尊氏像 | ||
*従来、尊氏の肖像として有名であった絵だが 近年の研究によって、この説は否定された。 現在では源頼朝か高師直(こうのもろなお、尊氏の執事)をモデルにした肖像画ではないかと見られているがこれも確証を得るには至っていない。ともあれ、一般的には有名な「尊氏像」の画像であるためここでは敢えて足利尊氏像として掲載した。 |
安達泰盛(あだちやすもり) |
安達泰盛(1231~1285)は、鎌倉幕府の有力御家人。五代鎌倉幕府将軍・藤原頼嗣の側近となって力をつけ、訴訟審理にあたる引付衆として、また評定衆として活躍。北条時宗、政村ら、執権を務めた人々と共に、秘密会議に参加しており、幕府政治の中枢に関与していた。娘が北条時宗の妻となって、後の、九代執権・貞時を生む等、北条氏との血縁が深かった。ところが、御家人の保護を図る安達泰盛に対し、北条の嫡流・得宗に仕える御家人の筆頭・平頼綱が対立。弘安8年(1285)、頼綱に急襲されて、一族諸共滅ばされた。(霜月騒動) |
安達景盛(あだちかげもり) |
安達景盛(〜1248)は、鎌倉幕府創期の有力御家人。安達盛長の長男、母は丹後内侍。通称・弥九郎。幕府創期より源頼朝に仕えた。頼朝の死後、梶原景時弾劾の先頭に立ちこれを滅亡した。永久元年(1219)、将軍・実朝の死に高野山に入り出家し、実朝の菩提を弔った。承久の乱(1221)に参戦した。娘は執権・北条経時、北条時頼を生んだ松下禅尼であり、外祖父として幕府内で北条氏の親戚として勢力を保ち、反対勢力の三浦氏の排除を画策。宝治元年(1246)の宝治の乱で三浦一族の討伐に成功した。翌年高野山で没する。 |
安達盛長(あだちもりなが) |
安達 盛長(保延元年(1135年)〜 正治2年4月26日)は、鎌倉時代の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖。通称は藤九郎、法名は蓮西。安達景盛の父。妻は源頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍。源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。 1180年の頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房に逃れる。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、奉行人として重用される。1189年、奥州合戦に従軍。1199年1月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年4月、将軍源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社であった。神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。 |
上杉憲方(うえすぎのりかた) |
上杉憲方(1335~1394)は、南北朝時代の武将。関東官僚で、鎌倉公方・足利氏満に仕えた。山ノ内上杉家。鎌倉幕府に反抗した下野の小山義政を討つ為、大将として出陣。小山氏を降服させた。鎌倉の山ノ内に居館を構えたので山内上杉と称され、上野、武蔵、伊豆の他、下野、安房の守護を任じられて、山ノ内上杉家の勢力を安定させた。応年元年(1394)60才で没す。鎌倉明月院を建立し、明月院境内に墓がある。 |
大江広元(おおえひろもと) |
大江広元(1148~1225)は、平安末期に後冷泉,後三条,堀河の三朝に仕え,正二位権中納言であった大江匡房のひ孫。元暦元(1184)、京都から源頼朝に招かれて鎌倉幕府に入り、公文所の別当(長官)となる。軍事には強いが法律には弱い鎌倉武士団にあって、頼朝の信頼厚く、後に政所の長官も兼ねて活躍した。また、源頼朝亡き後も,北条政子や北条義時と手を結び,梶原氏、比企氏、和田氏らを排除して北条氏の執権独裁体制を確立させる等、裏面で政治手腕をふるった。武家の武力には知恵をもって受け止め,冷厳な洞察力でで対処した典型的な文官政治家と云うことが出来る。 |
大田道灌(おおたどうかん) |
大田道灌(1432~1486)は、扇ヶ谷上杉家の家老。山ノ内上杉と扇ヶ谷上杉の対立が激化する関東にあって、政治・軍事に活躍。長禄元年(1457)に、江戸城を築いた。文学にも造詣が深く、江戸城には連歌師や禅僧などが集まった。しかし道灌の才能を恐れた主君・定正により、相模の国・定正邸で入浴中に殺害された。 |
足利持氏(あしかがもちうじ) |
足利持氏(1398〜1439)は、室町時代の武将。父は足利満兼。室町幕府第四代の鎌倉公方となる。鎌倉公方の権力を強化する為、関東将諸将の討伐を積極的に行ったことから、将軍側と対立。永享十年八月、将軍・足利義教は持氏追討を諸将に命じ、永享の乱が始まった。永享十一年(1439)二月鎌倉永安寺に監禁されていた持氏を包囲し、持氏は叔父・足利満直以下30余人とともに自害した。鎌倉の別願寺に高さ3mを超す、持氏の供養塔(市文)と永享の乱で自害した人々の墓があある。持氏の供養塔には四方に鳥居が浮き彫りされているが、これは持氏の怒りを静める為と言われている。享年42歳 |
足利直義(あしかがただよし) |
足利直義(1306〜1352)は、南北朝の武将。初期室町幕府の執政者。父は足利貞氏。足利尊氏の同母弟。元弘以来、1才違いの兄・尊氏と行動をともにし、建武政権から恩賞として相模国15ヵ所を与えられ、元弘三年十二月に鎌倉へ下向し関東の政務を行う。中先代の乱が起こると預けられていた護良親王を殺害して鎌倉を逃れたが、東下した兄・尊氏の軍勢と合流して鎌倉を奪回した。その後兄・尊氏と対立し、尊氏の軍勢と決戦し敗れ、降伏。文和元年、47才で逝去。尊氏に毒殺されたと言われている。 |
一幡(いちまん) | 人物関連図 悲劇の比企一族 |
一幡(1198〜1203)は、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の嫡男。母は比企能員の娘・若狭局。建仁三年(1203)、頼家が病となって一幡に関東28カ国の地頭職と守護職が譲られることになる。ところが北条を後ろ盾とする千幡(源実朝)には関西38カ国の地頭職が譲られることになり、比企能員と北条時政が対立し、比企能員は時政邸で殺害された。比企邸にも北条の兵が押し寄せ、幼い一幡は母・若狭局とともに、火に包まれて短い生涯を閉じた。比企邸跡の妙本寺には比企一族の墓と一幡の振袖塚、若狭局を祭ったじゃくし堂がある。 |
栄西(えいさい) |
栄西(1141〜1215)は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した僧。備中に生まれ、14歳で落髪、延暦寺で天台宗を学び、仁安三年(1168)と文治三年(1191)の二度、中国の宋に渡る。建久二年(1191)帰国して臨済禅の弘法を務めたが京都で比叡山に反対され、正治元年(1199)鎌倉に入った。鎌倉幕府は重く用い、翌年には北条政子が寿福寺を開創。栄西を開山に迎えた。次いで建仁二年(1202)には将軍・源頼家の外護で京都に建仁寺を開き、中央での拠点を確立した。わが国の臨済禅の祖と仰がれている。 |
栄西像 | |
阿仏尼(あぶつに) |
阿仏尼(〜1283)は鎌倉時代の歌人。「十六(いざよい)日記」の著者で知られる。平安時代以来の歌の宗家である藤原定家の子・為家の後妻が阿仏尼である。夫の所領を巡ってのトラブルで阿仏尼が鎌倉幕府へ直訴をする為に京都から鎌倉へ旅立った。鎌倉までのその16日間の日記が「十六日記」である。時は元寇の不安の最中であり、訴訟は放置され、阿仏尼は鎌倉に居たまま亡くなってしまった。子・為相はのちに兄から分家して冷泉家を起こした。阿仏尼の墓と言われている墓が英勝寺の近くにある。ちなみに息子・冷泉為相は向かいにある淨光明寺に眠っている。 |
阿仏尼 | ||
運慶(うんけい) |
運慶(〜1223)は奈良で活躍した鎌倉時代の仏師。平安末〜鎌倉期に活躍。天才的な腕前を誇り1180年代後半の一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、力強さと写実に特色のある鎌倉新様式を築く。貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で仏像も優雅端整なものから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされた。東大寺南大門の金剛力士像などは有名。 運慶の作品へ |
運慶像 | |
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