鎌倉の歴史上の主な人物

  源範頼(みなもとののりより)    源氏系図

源範頼は、鎌倉初期の武将。父は源義朝源頼朝の異母弟。平治の乱後、伊豆で流人生活を送っていた兄・頼朝が源氏再興のため挙兵すると早速駆けつけ源義経と共に頼朝の代官として、京にあった従兄・木曽義仲追討のため、数万騎を率いて出陣。近江国瀬田で義仲を討った。その後京の治安にあたり、平氏追討のため一の谷へ大将軍として56000騎の大軍を率いて西国へ遠征し、義経軍と共に戦い平氏を敗走させた。再度平氏追討のため鎌倉を出陣し苦戦するも、義経軍が平氏を壇ノ浦で壊滅し、平氏は滅亡した。範頼は九州で九州における鎌倉幕府支配の確立に努めた。その後、頼朝に謀反の汚名を着せられ、伊豆・修善寺に配流となり、頼朝の命により暗殺された。修善寺に源範頼の墓がある。また近くに第2代鎌倉幕府将軍の源頼家の墓がある。



源範頼







  源頼政(みなもとのよりまさ)    源氏系図
源頼政(1104〜1180)は、平安後期の武将。歌人。父は仲政。清和源氏の攝津源氏の始祖・頼光から五代目。保元元年(1152)の保元の乱には後白河天皇方に参加。平治の乱では同族のの源義朝の勧誘に従ってはじめは藤原信頼、源義朝方に味方したが義朝の父・為義や弟・為朝と対立して乱後の人望を失うのを嫌って、後に平清盛方についた。治承2年(1178)74才の時、従三位となった。武家としては異例の昇進であった。平清盛の推挙があったと言われる。しかし平氏の横暴に反感を持ち、以仁王の反平氏に呼応して平氏打倒の挙兵を決行したが山科を経て、宇治に向かう途中で平知盛を将とする平氏軍に追われ、宇治平等院の近辺で戦いなり傷を負い、ついに平等院で自害した。頼政の挙兵は失敗に終わったが平氏政権内部からの反平氏の企ては反平氏武士達に大きな影響を与えた。












  三浦義澄(みうらよしずみ)   
三浦義澄(1127〜1200)は、鎌倉初期の武将。相模国三浦郡矢部郷。父は三浦義明。治承4年(1180)の源頼朝の平氏追討の挙兵に、一族と共に呼応し、由井の浦で遭遇した平氏方の畠山重忠の軍を破り、頼朝と共に上総、下総、武蔵を経て鎌倉へ入った。幕府長老の一人となり、頼朝の平氏追討軍に参加。壇ノ浦合戦で功を上げ、また文治元年の奥州征伐でも功績を上げた。頼朝の死亡後、源頼家の時に、宿老13人の合議制に参加。多くの御家人と共に梶原景時の鎌倉追放に加担した。74才で没する。
















    以仁王(もちひとおう)    
以仁王(1151〜1180)は、平安末期の皇族。反平氏挙兵のきっかけを作った人物。父は後白河天皇。兄は二条天皇、弟は高倉天皇といずれも皇位についているが平氏との縁がなかったこと等によって不遇の生涯を送り親王宣下も行われなかった。治承4年(1180)に源頼政と共に平氏の追討の挙兵を計画。自ら、平氏追討の令旨を全国に発した。令旨は、源行家によって全国の源氏に伝えられ、源頼朝木曽義仲の挙兵につながり、平氏滅亡のきっかけとなった。
皇室系図
  三浦義明(みうらよしあき)   
    
平安時代後期の武将。三浦義継の子。義澄の父。三浦半島全域を本領とした豪族三浦一族の総師。三浦大介と称し、1180(治承4)年、源頼朝が挙兵すると一族をあげて頼朝に合流しようとしましたが、間に合わず、衣笠城に引き上げる途中、小坪坂で平家方の畠山重忠らと戦い、さらに衣笠城で籠城して平家方と合戦。1日で敗北。義澄以下一族を諭して、安房へ逃亡し頼朝と再起を図らせ、自身は城に残り討ち死にします。 享年89歳。義明戦死後、義澄を棟梁とする三浦勢は房総で頼朝と合流し、以降再起した頼朝勢の中核を担うこととなる。その中には和田義盛も存在した。

 











  三浦義村(みうらよしむら)   
三浦義村(?〜1239)は、三浦義澄の子。梶原景時の追放や、畠山重忠討伐にも活躍。北条氏と組んで勢力を拡大しました。和田の乱(1213)では直前に和田義盛を裏切り北条方に付きます。実朝を暗殺した公暁は、義村の邸へ向かったが義村により討たれ、これにより、実朝暗殺の黒幕が義村との説もあります。承久の乱に際しては、上皇方に付いた弟胤義の幼い遺児たちを、北条氏をはばかって田越川ほとりで処刑。 その供養のため、新逗子駅近くに、大正時代、三浦胤義遺孤碑が建立されました。
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