宝治の乱(1247) |
宝治元年(1247)北条氏による独裁政治を確立するため、北条氏は,源頼朝以来の幕府創業期の有力御家人の粛正に務めてきたが、この乱によって北条氏の独裁体制が出来上がった。これまで北条氏は、梶原氏、比企氏、和田氏、畠山氏など北条氏の体制に障害になりそうな幕府創業に貢献した有力御家人の一族を滅ぼしてきたが、まだ幾つかの有力な御家人は健在であった。その中で、当時最も繁栄していたのが三浦氏であった。 強大な勢力になっていた三浦一族は、当時の若い執権・北条時頼にとっては煩い存在であった。北条時頼は三浦秦村を挑発し、挙兵に追い込んで討とうとした。時頼の意を察して動いたのが、時頼の母・松下禅尼の父である有力豪族の安達景盛であった。宝治元年5月、鶴岡八幡宮の鳥居の前に、「横暴な三浦秦村を誅罰すべし」と言う立て札が立てられた。それをひきりに、しばしば三浦一族の謀反を言いふらす流言が飛び交った。安達景盛の挑発であった。 こうして三浦氏を窮地に追い詰め、三浦氏が挙兵するのを待った。謀反気も無い三浦秦村は時頼に使者を派遣して、謀反の意思が無いことを訴えた。時頼からは三浦氏を誅罰する気は無いと書状で回答したが、安心した秦村は、心配して駆けつけた郎党を解散させた。しかしこの機会を逃しては三浦一族を滅ぼすことが出来ないと安達景盛は大軍を率いて三浦館へ押し寄せた。 これを聞き駆けつけた秦村の娘婿・毛利入道西阿も応援に駆けつけたが、時頼も身内の安達氏を応援するため援軍を繰り出した。大軍に包囲された秦村は、仮に、ここを逃れても時頼の三浦一族を滅ぼす気持ちは変わらないと判断し、そこで秦村は、源頼朝の墓所である法華堂にこもり、一族500余人と共に自害した。時頼はこの後、勢いに乗じて三浦氏と並ぶ有力御家人の千葉一族も滅ぼした。ここに幕府における北条氏の独裁政治は確立した。 |
北条氏系図 |
宝治の乱の三浦一族の墓 |
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