| 古都鎌倉の歴史を訪ねて (日蓮散策歴史散策) 歴史年表 | | 日蓮上人のゆかりの地を訪ねて |
鎌倉には、新時代の仏教を唱える多くの宗教家が現れた。その中でも日蓮上人は、数々の法難にあいながらも屈せず、最後まで民衆の側に見を置いた宗教史上でも稀有な人物でした。
日蓮上人は、承久4年(1222)の春、安房国小港の漁師の子として生まれました。12歳の時、安房清澄山で仏道に入りました。その後、鎌倉、比叡山など各地の諸山、諸寺を歴訪し、修行を積み、建長5年(1253)清澄山に戻り、日蓮宗を開きました。しかし法華経が唯一の正しい教えだとして他宗を攻撃・排斥したので、領主に追われました。
建長5年(1253)に鎌倉に入った日蓮上人は、松葉ヶ谷に小さな草庵を建てました。日蓮上人が最初に草庵を結んだ所と伝えられる寺が3っあり、妙法寺、安国論寺、そして長勝寺です。この草庵から日蓮上人は、毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々につじ説法を行って法華経の教えを説いていました。当時の鎌倉は地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、恐怖と不安におののく人々を救おうと、つじ説法する日蓮上人の教えは、信者を増やしていきました。文応元年(1260)、日蓮上人は「立正安国論」を著して鎌倉幕府第8代執権・北条時頼に建白しました。天変地異の実状と原因を問答形式で示したもので、邪教の流行が異変の原因と他宗を批判し、治安国家の為、法華経を信仰せよ、でなければ、国難が襲うと警告しました。北条時頼はこれを無視し、弘長元年(1261)、幕府は日蓮上人を捕らえ、伊豆へ配流しました。 弘長3年(1263)、伊豆流罪を解かれて鎌倉に戻った日蓮上人は、布教活動を再開しました。幕府に再び立正安国論を差し出し、蒙古来襲を警告しました。文永8年(1271)、再び幕府は日蓮上人を捕らえ、龍の口刑場で処刑する事になりました。しかし処刑寸前に、天にわかにかき曇り稲光が起こり、処刑を免れ、佐渡へ配流されました。 文永11年(1274)、赦免によって佐渡から戻った日蓮上人は、鎌倉の夷堂に滞在した後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し布教を再開しました。その数ヵ月後の、文永の役と弘安4年(1281)の弘安の役の2度にわたる蒙古襲来があり、日蓮上人の予言が的中しました。弘安5年(1282)、日蓮上人は武蔵国池上で病により、60歳で激動の生涯を閉じました。 日蓮上人の思想の根底に流れていたもの、それは、社会に対する飽くなき挑戦だったのではないかと言われる。今、日蓮上人は鎌倉の至る所にその布教の足跡を残しています。ここでは、そのゆかりの地を訪ねます。 | |
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