鎌倉の歴史上の主な人物

  日蓮上人(にちれんしょうにん)
日蓮(1222~1282)は、鎌倉幕府中期の僧で、日蓮宗を開いた。日蓮は承久4年(1222)の春、安房国小湊(現在の千葉県鴨川市天津小湊)に生まれた。比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念を持ち、建長五年(1253)、政治不安や天災に苦しむ社会を救おうと、鎌倉にやって来た。当時の鎌倉は、禅宗や念仏宗の信者が多かった。日蓮は、松葉ケ谷に小さな草庵を建て、そこから鎌倉の町の辻に立ち、説法でこれを激しく攻撃した。(辻説法跡)中でも、其の著「立正安国論」では、邪教に惑わされている世間と、邪教を許している幕府を強く批判した。日蓮は「立正安国論」を、幕府の実力者、北条時頼に提出した。時頼は黙殺したが、仏教者達が怒って日蓮の草庵を焼き討ちした。日蓮は伊豆へ流されたが、やがて許され鎌倉に帰ったが、当時鎌倉は元による侵略の危機が高まっており、「立正安国論」の予言が的中した様になった。文永八年(1271)、再度「立正安国論」を幕府に差し出したことから、執権北条時宗によって処刑されかかるが、処刑の難を逃れ、佐渡へ流された。三年後、許されて身延山に入った。元軍の攻撃は、その三年後であった。どんな弾圧にも屈せず、権力者に迎合することなく、最後まで民衆の側に身を置いた日蓮は日本の宗教史上、稀な人物であった。鎌倉には、日連の足跡が多く見られる。(妙法寺国論寺長勝寺常栄寺龍口寺本覚寺,妙本寺
山梨県身延山久遠寺に御廟所。

   日蓮上人像




  新田義貞(にったよしさだ)
新田義貞(1301~1338)は、鎌倉幕府を倒し、建武の新政に功のあった武将。その家系は、源氏の礎を築いた源義家に連なる家柄である。元弘三年(1333)、鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していた。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募った。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞であった。元弘三年5月八日に新田荘を発した義貞の動きは実に目覚しく、越後、甲斐、信濃の軍勢を合流しながら、九日に武蔵へ侵入。十六日には、分倍河原を突破。十八日には、鎌倉攻めに入った。義貞は、兵を三手に分け、極楽寺坂巨福呂坂化粧坂から攻撃を開始。各所での幕府軍の反撃は激しく、特に極楽寺坂の戦いでは、新田軍に多くの犠牲者が出た。新田軍はなかなか突破できない為、21日夜半に稲村ガ崎から干潮時に海つたいで鎌倉に突入した。翌二十二日、激しい戦いの後、北条高時一族は東勝寺に追い込まれ、もうこれまでと一族800名が自害し(高時腹切やぐ)、終に150年に渡る鎌倉幕府は滅亡した。しかし戦後の評価は尊氏の方が高く、功績は足利尊氏に集まった。義貞は関東を離れ後醍醐天皇の側に仕え、天皇に反抗した尊氏を討つ為、鎌倉に向かったが、箱根で敗戦。その後も尊氏と戦ったが、湊川でも破れ北陸へ走る。しかし越前藤島で尊氏軍と戦い、無残に戦死した。義貞が輝いていたのは鎌倉攻めの2週間だけであった様な、不運な一生の様に感じられる。1338年越前藤島で討死。上州大田の金龍寺に墓所
  新田義貞像




   忍性(にんしょう)
忍性(1217~1303)は、中世の福祉事業家である。極楽寺を開き、貧民の救済などに尽くした。鎌倉時代は、仏教の新しい宗派が次々と生まれた時期。法然、栄西、親鸞、道元、日蓮一遍らは新仏教の担い手達は、新時代にふさわしい教えを持って、民衆の中に分け入っていった。その一方で仏の教えを民衆の中で実践しようとした。その代表者が、真言律宗の僧・忍性である。奈良西大寺の叡尊に学んだ。北条氏に招かれ極楽寺に入ると、無料で診療する施薬院や、孤児院・養老院にあたる悲田院など多くの福祉施設を置いた。また忍性は生涯に189の橋、71の道路、33の井戸を掘ったと言われる。福祉から土木に及ぶ幅広い活動は北条氏との強い関係があったからである。後に、後醍醐天から菩薩の称号を与えられた。極楽寺の裏山に、北条重時の墓より圧倒的に大きな忍性の墓がある(年1回花祭りの日に一般公開)

    忍性像

  冷泉為相(れいぜいためすけ)
冷泉為相(1263〜1328)は、冷泉家の始祖。藤原定家の孫。父は藤原為家。母は「十六夜日記」の作者の阿仏尼。父・為家の死後、兄・為氏と家領・播磨国(兵庫)細川荘の相続を争う。その訴訟の為、鎌倉へ下向した母・阿仏尼を慕って鎌倉へ来て、藤谷に住んだ。正二位中納言に至り、藤谷黄門と称された。歌集には「藤谷和歌集」「為相郷千首」などがある。墓は光明寺の裏山にある。
     冷泉為相像