悲運の武将・源義経と鎌倉のゆかりの地を訪ねて |
鎌倉と義経の接点は唯一、腰越の満福寺です。ここでは悲運の武将・源義経の生涯と鎌倉・満福寺を中心とした散策コースを紹介します。 |
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源義経の生涯 源氏系図 鎌倉時代前期の武将・源義経は、幼名・牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤御前。源頼朝の異母弟にあたる。治承4年(1180)、奥州から兄・頼朝の平家打倒の挙兵に参じ、元暦元年(1184)、兄・範頼とともに木曾義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平家を破った。帰洛後、洛中の警護にあたり、後白河法皇の信任を得、源頼朝の許可なく検非違使左衛門少尉となったため源頼朝の怒りをかい、平氏追討の任を解かれた。元暦2年(1185)2月、再び、平氏追討に起用され、屋島、壇ノ浦に平氏を壊滅させた。 しかし、頼朝との不和が深まり、元暦2年(1185)5月7日、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの鎌倉入りが拒否され、腰越に逗留。元暦2年(1185)5月27日、頼朝の怒りを解くため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。しかし、頼朝の怒りが解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経は頼朝の追跡を逃れて、かっての奥州藤原秀衝を頼った。しかし藤原秀衝が亡くなると息子の藤原泰衡に裏切られて衣川の館を攻められここで31歳の若さで自害してしまった。 |
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源義経の年表 *下線部分をクリックしますと詳細を紹介します
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源義経のゆかりの史跡と散策 コース概要
コース見所
コース順序 徒歩(史跡間の時間。史跡内の時間含まず) *名所の名前をクリックしますと詳細をご覧いただけます |