| 古都鎌倉の歴史を訪ねて (源頼朝歴史散策)
源氏系図 源頼朝歴史年表 | | 鎌倉幕府の誕生と源頼朝のゆかりの地を訪ねて |
平治の乱で伊豆・蛭が小島に流されていた源頼朝が,以仁王の令旨により治承4年(1180)8月17日に,平氏の打倒を目指して伊豆韮山で挙兵した。しかし石橋山の戦いで、平氏方に敗北し,真鶴岬から海を渡って安房に逃れた.そして頼朝が,安房より源氏ゆかりの地に4万の大軍を引き連れて鎌倉に第一歩をしるしたのは、冶承4年(1180)10月でした。鎌倉入りした頼朝は、先ず、現在の材木座にあった八幡宮を北山に遷しました。これが鶴岡八幡宮で今も、鎌倉のシンボルになっています。 源頼朝にとって鎌倉は源氏ゆかりに地であるとともに,鎌倉は南は相模湾に臨み、東北西の三方は山に囲まれた要害の地であり、”鎌倉城”とも言われました。頼朝の館は、鶴岡八幡宮の東方、大蔵に造営され、冶承4年(1180)12月2日に完成しました.鎌倉の町造りは鶴岡八幡宮から真直ぐに伸びる若宮大路を中心にして作られました。若宮大路には頼朝が妻の北條政子の安産を祈って参道・「段葛」も作られました。これは今でも変わっていません。 その後,頼朝と同じく平氏の打倒を目指して木曽で挙兵した従兄弟の木曽義仲を打倒し,そして念願であった平氏も打倒しました.しかし,一の谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦で活躍して平氏の滅亡に貢献した弟・源義経と仲たがいし、これを追討しました。源義経は頼朝に許しを請うために腰越から腰越状を頼朝に差し出しましたが許されず鎌倉へ入ることが出来ませんでした。 源義経は奥州藤原氏を頼ったが結局,藤原秀衡亡き後、子の泰衡に攻められ奥州の衣川の屋敷で自害しました。その後,源頼朝は源義経をかくまった奥州の藤原氏も打倒して全国の統一成し遂げました。建久2年(1191)頂点にたった頼朝は鎌倉幕府に相応しく武門のシンボルである鶴岡八幡宮を修造しました。 頼朝は,今まで朝廷が支配していた政権を,武士が勝ち取った最初の人物でした。建久3年(1192)7月2日に頼朝は征夷大将軍になり鎌倉幕府を開きました。これが鎌倉において,また武士としての初めての幕府・大蔵幕府でした。建久9年(1199)12月27日,頼朝は,御家人の稲葉重成の亡妻の供養の為に,相模川にかけた橋の完成祝いにでかけ,その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で翌年に亡くなりました。鎌倉幕府が開かれて7年後のことでした。ここでは、鎌倉での頼朝ゆかりの場所を散策します。 |
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